「猿の惑星」はSF映画のフリをした人間社会の映画です。60年代後半からアメリカに起こった人種問題、戦争、冷戦、核の抑止力などについての批判であり問題提起となっています。そんな「猿の惑星」シリーズの初期3部作について解説します。
原作は日本人を猿に置き換えた
「猿の惑星」の原作はフランスの小説家ピエール・ブールによって書かれた。第2次世界大戦当時、ブールはフランス領インドシナでアジア人を使ってプランテーションを経営していたが、日本軍の捕虜となり、過酷な日々を過ごした。その経験をもとに小説化したのが、「戦場にかける橋」であり、「猿の惑星」だった。日本人を始めとしたアジア人への蔑称として欧米人が使っていたモンキーへと日本人を置き換えたのである。
「猿の惑星」はアメリカの人種問題を置き換えた
「猿の惑星」はフランクリン・J・シャフナー監督によるSF映画で1968年に公開された。映画化にあたり、猿社会の中にも、軍人であるゴリラ、文化人であるチンパンジー、政治家であるオランウータンという階層を作った。これらの猿と人間によるSF映画は、アメリカの人種問題の置き換えになっている。1950年代から1960年代にかけて、アメリカでは黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求めて大衆運動を行った。公民権は勝ち取ったものの、人種差別の諸問題は今なお解決されていない。その最中に制作された「猿の惑星」では、人間=白人であり、ゴリラ=黒人、チンパンジー=ユダヤ人、オランウータン=イギリス人の置き換えなのである。
「猿の惑星」の主人公テイラーを演じるのは、それまでは白人の代表として異人種に対峙する役を得意としていたチャールトン・ヘストン。白人の象徴とも言えるチャールトン・ヘストンは、猿たちに狩られ、囚われ、非人道的な扱いを受ける。その様子は人間(白人)の尊厳を揺さぶるとともに、人間(白人)たちこそ猿(黒人他)たちを非人道的に扱っていなかったか?と問題提起する。そして映画史に残る衝撃的なラストでは、崩れた自由の女神を前にして、チャールトン・ヘストンが泣き崩れる。「人間はとうとうやっちまったんだ」と核戦争での全滅を示唆する。まさに白人たちの絶望を示すラストである。
「続・猿の惑星」は戦争を置き換えた
「続・猿の惑星」はテッド・ポスト監督によるSF映画で1970年に公開された。前作の絶望的なラストから、話の主題は戦争に移っていく。人間でも猿でもない、ミュータント化した人類は廃墟となったニューヨークの地下でコバルト爆弾を神と崇めている。いざとなれば地球もろとも爆発させてしまおうというのは、核開発競争、核の抑止力に対する問題提起である。
ゴリラたちがミュータントに攻め入ろうとする場面では、チンパンジーたちが平和を求めて座り込みをしているが、武力によって排除される。これは1960年代後半のアメリカの最大の関心事であるベトナム反戦運動の置き換えである。他にも、第1作の主人公テイラーと第2作の主人公ブレントが、ミュータントに操られて戦うのは、冷戦下の代理戦争を思い起こさせる。
そしてラストではついにコバルト爆弾を発射してしまい、地球が木っ端微塵となるという前作以上に救いようのないラストを迎える。
「新・猿の惑星」は「猿の惑星」を反転させた
「新・猿の惑星」はドン・テイラー監督によるSF映画で1971年に公開された。前作のラストで地球を木っ端微塵にしたにも関わらず、倒産寸前であった20世紀FOXは、ドル箱であった「猿の惑星」シリーズの制作を諦めなかった。テイラーたちの味方であったチンパンジーのコーネリアスとジーラは地球爆発の直前に宇宙船で脱出しており、地球爆発の衝撃で過去にタイムスリップしてしまう。そして辿り着いたのは、コーネリアスたちにとっては過去の(テイラーたちにとっては現代の)地球である。
人間が猿社会にたどり着き、言葉を話せるのを不思議がられるのが「猿の惑星」であった。これを反転させて、猿が人間社会にたどり着き、言葉を話せるのを不思議がられるのが「新・猿の惑星」である。コーネリアスとジーラは自分たちがテイラーを助けたように、ルイス博士、スティービー博士に助けられる。そして、白人の威厳を取り戻すためか、大統領や対策委員会の面々も差別的な扱いはせず、極めて冷静かつ論理的に対処しているように思える。ただし、大統領の科学顧問であるオットー・ハスライン博士は未来の人類を案じ、猿たちを危険な存在として抹殺しようと行動する。
ラストはこれまでとは異なり、猿たちにとって希望が残るものとなっている。コーネリアスとジーラは殺されてしまうが、彼らの子供が生き残り、小猿のママァの声とともに幕を閉じる。第4作へ繋がるラストシーンだ。
以上、「猿の惑星」シリーズ初期3部作でした。